夜明けの520号室

ままならないオタクによる、フリーダム&カオス雑記。

雨瀬シオリ『ここは今から倫理です。』1巻のあとがきで泣いた話

さっきショックなことがあった。
わけあって出先の漫画喫茶でブログのネタを思いついた。
しかし、ブログのパスワード類を覚えていない。
そこでふせったーの追記機能で下書きをして、一度ツイッターに投稿して帰宅後にコピペしようと思いついた。
そして下書きをした。2500字くらい書いた。投稿ボタンを押した。
エラーが出て投稿できなかった。下書きは全て消えた。バックアップなどどこにもなかった。

そんなわけで、今から書くものは消えた下書きの残りカス、完全に死んだ魚の目をしたネタだ。
それでも、何を書いたか、どんな気持ちで書いたかを、思い出せる限り思い出して書いていく。

 


雨瀬シオリ『ここは今から倫理です。』1巻を読んだ。
とある高校の倫理教諭・高柳を主人公とする漫画である。詳しいことはamazon等で調べてほしい。

 

 
この作品を知ったのは、ツイッターのRTで回ってきた1話から3話までの試し読みがきっかけだった。
その時は、高柳先生が魅力的だなぁ、というくらいの印象だったのだが、漫画喫茶に偶然1巻が置いてあったので読んでみた。
そして泣いた。
泣きながら下書きを書いて全部消えて涙が引っ込んで、漫画喫茶を出て本屋を3軒回って見つけて買って帰ってきた。
今から書くのは、漫画喫茶で控えめな嗚咽を上げながら2500文字をタイプし続けた理由についてだ。

 

『ここ倫』(勝手に略した)には、いわゆる「泣けるポイント」が複数ある。
私は第4話でボロボロに泣いたのだが、今回はその話ではない(また書けたら書く)。
私が「一番泣いた」のは、巻末の「あとがき」漫画(pp221-223)だった。
以下、あとがきのネタバレを含むので注意してください。

 

 

 

 


雨瀬氏にはこの作品を描いているときに「ずっと頭から離れない事」があるという。
それは、彼女の「大好きだったおばさんが突然自殺した」という出来事。

うつ病で薬をずっと飲んでたおばさん
働けずずっと家でばあちゃんと2人きりだった
でもいつも明るくて清潔でよく笑って
100人いたら100人共好きになるような可愛い人で

そんなおばさんが、自ら命を絶った。
そして、遺品として遺されたのが
「フセンだらけの倫理の教科書」「哲学書」「『神様との対話日記』なる日記」
だった。


雨瀬氏は、教科書のフセンは「必死に自分を助けてくれる言葉を探」すための、「"生きるため"の勉強の跡」だったと思っている。
そして、日記は「その日あったよかったこと、今悩んでいること、『自分に出来る事』を必死に探してること」を「自分の心の中に作った"神様"」に打ち明けるものだったと言う。

みんなくちぐちに彼女の自殺を「うつ病だったからね」の一言で済ますけど
私はこんなに必死に戦ってた人をそんな一言で終わらせたくないと思う

そう思う雨瀬氏は、

今このマンガを色々な想いを込めて描けているのは
間違いなくおばさんのおかげです
ありがとう こんなとこでネタにしてごめんね
本当に助けられている事言いたかった自己満です

とおばさんに語りかけている。

この3ページのあとがきで、私は泣いた。

 

最初に思ったのは、「私たちが戦っている存在はこんなにも大きいのだ」ということ。
おばさんは生きようと思っていた。
倫理の教科書を読み、"神様"と対話することで、自分で自分を助けようとしていた。
だけど、人間の心はいつだって振り子のように揺れている。
「助かりたい」、「自分は助かってもいい」という気持ちが強くなったり弱くなったりする。
そして、うつという病は、振り子が自分たちの方へ揺れてくるのを虎視眈々と待っているのだ。
まるで東京事変「絶体絶命」に歌われている「かなしみ」のように。

 

次に思ったのは、「私は負けたくない」ということ。
上で「私たち」と書いたが、私もまた「かなしみ」に狙われている。
自分では病識が薄いのだけど、通院も服薬もしている。自分の食い扶持を稼げずパラサイトシングルをやってもいる。
私の「振り子」は振れ幅が尋常ではない。端と端では同じ人間とは思えないくらい思考も感情も違う。
そのせいで、何度も何度も何度もいろんな物事をぶち壊しにしてきた。
正直、もう嫌になってばかりだ。
それでも、このあとがきを読んだ時は、嫌になっても投げ出さずに生に食らいつきたいと思った。
おばさんの仇討ちみたいな気持ちで、そんなことを思った。

 

そして、そういうことを書いているうちに思ったのが、「死んだら負けなんかじゃない」ということ。
さっきの言葉と矛盾している気もするが、ここで言う「負け」とは「負け犬」とか「無価値」とか、そういうニュアンスだ。
おばさんは生きるために戦っていた。生きるために戦っていて、そのさなかに亡くなった。
もし自殺が「負け」なのだとしたら、彼女の戦いは無価値なのだろうか?
そんなこと、絶対ない。
だって私はおばさんのことを知って泣いた。おばさんが死んでしまったことが悲しくて泣いたわけじゃない。おばさんが生きようとしていたことに励まされて泣いたのだ。
おばさんは死んでしまった。でも、おばさんの生きるための戦いが、生への意志が、嘘だったはずがない。
おばさんは生きようとしていた。読んで、書いて、自分を助けながら生きていた。
その事実が、自殺という結果ひとつで「なかったこと」になるなんて、ふざけている。
そんなことを、強く思った。

 

もうひとつ、私が救われた気になったことがある。
おばさんの生き様が雨瀬氏や私の心に響いた、という事実自体が、私にとっての救いもしくは希望なのだ。
おばさんは別に「他のうつ病当事者たちに希望を与えるため」に生きていたわけじゃないと思う。ただ、自分が生きるために生きて、自分を助けるために教科書にフセンを貼ったり対話日記をつけたりしていたんだろう。他の誰でもない自分のための営為だ。
でも、彼女のそんな「ただ生きた」在り方が、雨瀬氏の漫画を助け、私を励ましてくれている。
つまり、人はただ生きているだけで他者の力になりうるのだ。
多くの人には当たり前のことかもしれない。でも、私は今日初めて実感した。
私は他者の力になりたい。誰かの役に立ちたい。役に立って認められたい。認められて「ここにいていいんだ」と思いたい。
だけど、私にできることなんてあんまりない。だから他者の力になんてそうそうなれないと思っていた。
でも、もしも「人はただ生きているだけで他者の力になりうる」のなら、私もただ生きているだけで、不格好にもがいて馬鹿みたいなことしでかして何度もぶち壊しにして死のうと思ってでも結局性懲りもなく立ち上がっての繰り返しをしているだけで、誰かの役に立てるのかもしれない。
そうだとしたら、すごく嬉しい。

 


下書きからはだいぶずれてしまった。
というか、下書きで何を書いていたかほとんど思い出せなかった。
それこそ昨夜の夢を思い出すレベルの難易度だった。
恣意的な解釈に基づいて色々と勝手なことを書いてしまったが、一つ言えるのは、『ここは今から倫理です。』は私が書いたようなこと関係なしに読んでほしい良漫画だということである。
まだ1巻しか出ていないので読み始めるなら今だと思う。ぜひぜひチェックしてほしい。

 

最後に。
雨瀬シオリ先生、あとがきのことばっかり書いた上に拡大解釈ばっかりしてすみません。でも、このあとがきをつけてくださって本当にありがとうございました。
雨瀬先生のおばさま、勝手に共感してすみません。でも、生きてくださって、生きるために戦ってくださって本当にありがとうございました。