夜明けの520号室

ままならないオタクによる、フリーダム&カオス雑記。

おかあさんじゃないあたしが #あたしおかあさんだから と #あたしおかあさんだけど に思うこと

これからの人生において「おかあさん」になる予定は、今のところ一切ない。

基本的に自分のことだけで手一杯だし、ちゃんと育てられる自信が一切ないし、正直「こんな世界に産み落とされる子供が可哀想」という考えが強いので、私は「おかあさん」にならないまま生きて死んでいくはずだ。

 

そういう「母になるつもりがない女性」の立場で、昨日くらいからネットで話題の「あたし おかあさんだから」なる歌について思ったことを書く。

 

 

1 「あたし おかあさんだから」は「応援歌」なのか?

「あたし おかあさんだから」については、もう大勢の人が語っている。詳しくはググっていただければと思うが、とりあえずの概要とその後起こった「#あたしおかあさんだけど」というタグの広がりについては、このまとめでわかるだろう。

togetter.com

 

まず、私が「あたし おかあさんだから」に対して感じたのは、

「『あたし』だいぶ精神的に参ってるな」

ということだった。

「おかあさんになるまえ」にできていたことを諦め、「あなた(子供)の事ばかり」になり、それでも「あたし おかあさんだから」と何度も何度も繰り返して自分を納得させて、必死で「あたし おかあさんになれてよかった/だって あなた(子供)にあえたから」と自分に言い聞かせている、そんな女性の姿が思い浮かんだ。

 

こちらの記事によると、作詞者ののぶみ氏は

これは、元々 ママおつかれさまの応援歌なんだ

 というつもりで、この詞を書かれたそうだ。

しかし、これは「応援歌」なのだろうか。

 

この詞が、たとえば「育児疲れに悩む母親のブログ」のコンテンツとして投稿され、最後に「そう思いながら何とかやってますが、正直しんどいです」とでも書かれていれば、批判よりも共感の声のほうが大きかったように思う。

 現実として、「あたし おかあさんだから」のような状況下にある女性は少なくないだろうし、そのつらさを分かち合ったり、その「告発」をきっかけに議論が起こったりする(実際にもこの歌詞に端を発した議論が活発になっているが)ことはいいことだろう。

 

ところが、のぶみ氏はこうも語っているという。

僕としては、あたしおかあさんだから体験できたことを歌詞にしてます

 私は、体験「できたこと」という表現に違和感を覚えた。

「できた」と言えば、普通ポジティブな意味合いだと思う。

でも、「眠いまま朝5時に起きる」「大好きなおかずあげる」といったことは、「ポジティブな体験」なのだろうか。

実際には「そうだ」という人も「ちがう」という人もいると思う。それは人それぞれだろう。

問題なのは、(のぶみ氏の意図がどうあれ)それらを「ポジティブな体験」としてとらえるべき、という圧力が読み取れることだと思う。

つまり、

「子育ての苦労は喜びなんだ」

「つらいなんて思うべきじゃない」

「だっておかあさんなんだから」

という、いわゆる「呪い」が込められた歌詞だと解釈できるのだ。

そういう視点から語られた「#あたしおかあさんだから」が、応援歌であるはずがない――と私は思う。

 

1.5 「#あたしおかあさんだから」と"Because I am a Girl"

この歌を知った時に思い出したのが、"Because I am a Girl"という言葉だった。

Because I am a Girl|プラン・インターナショナル・ジャパンのボランティア・寄付で途上国の子どもに支援を。

詳しくはこちらのサイト等を見ていただきたいのだが、

「世界の国々には『女の子だから』という理由で学校に行けなかったり、勝手に結婚させられたりする女性が大勢いる」

という事実を訴える際のコピーみたいなものだと思う。

「私は女の子だから」勉強も恋愛も諦めて当然なんだ、と思わなければいけない少女たちと、「あたしおかあさんだから」子供を最優先して当然なんだ、と思わなければいけない母親たちは、どこか似ている。

それはきっと、両者ともが「女は/母親はこうあるべき」という規範に縛られた社会を生きているからだろう。

 

2 #あたしおかあさんだけど は「呪いからの解放」なのか?

さて、「あたし おかあさんだから」に対するカウンターとして、ツイッター等で広まったのが「#あたしおかあさんだけど」というタグである。

そこで語られるのは、「おかあさんだけど冷凍食品使ってます」や「おかあさんだけどぐうたらすることもあります」、あるいは「おかあさんだけど好きな服着てます」といった、いわば等身大の母親像だ。

この動きは、「#あたしおかあさんだから」の中に含まれる「だからこうしなきゃいけないんだ/我慢しなきゃいけないんだ」という「呪い」への対抗策として、多くの母親やそれ以外の人たちに支持されている。

 

しかし、私はこう感じた。

「#あたしおかあさんだけど」の流行は、逆説的に「おかあさん」という呪縛の強固さを証明しているのではないか、と。

 

「けど」は逆接の接続詞だ。

逆接とは「前の事がらから予想される結果とは逆の結果になることを示す」ものだという。

だとすると、「あたしおかあさんだけど」の後に続くのは、「『おかあさん』から予想されるもの」とは逆の意味合いのものである、ということになる。

それを踏まえて「#あたしおかあさんだけど」を再び見てみると、そこに含まれているものが見えてくる。

「おかあさんだけど冷凍食品使ってます」の中には、「『おかあさん』は冷凍食品を使ってはいけない」が隠れている。

「おかあさんだけど好きな服着てます」の裏には、「『おかあさん』は普通なら子育てに適した服を着るものだ」がひそんでいる。

つまり、「#あたしおかあさんだけど」タグを使っている母親たちの中にも、「本来ならこうあるべき(と言われている)『理想のおかあさん』像」というものは、はっきりと確立されていると言えるだろう。

 

はっきり言って、生身の人間が「理想のおかあさん」になることはまず無理だと思う。

にもかかわらず、「世間」は「理想のおかあさん」像を設定し、母親たちにそれを目指せと圧力をかける。 

だから、「#あたしおかあさんだから」な人も「#あたしおかあさんだけど」な人も、無茶な願望を押し付けられているという点では同じと言えるかもしれない。

 

おわりに いつか #あたしあたしだから と言えたら

母親でも何でもない人間が長々と思ったことを書いてきたが、最後に私が思う「理想」を語っておきたい。

それは、「あたしあたしだから」でOKな社会というものだ。

 

「あたしおかあさんだから冷凍食品は使わない」じゃなくて「あたし料理好きだから冷凍食品は使わない」でいいじゃないか。

「あたしおかあさんだけど冷凍食品使ってます」じゃなくて「あたし料理に時間かけたくないから冷凍食品使ってます」でいいじゃないか。

「あたしおかあさんだから動きやすい服を着ます」じゃなくて「あたし子供と駆け回りたいから動きやすい服を着ます」でいいじゃないか。

「あたしおかあさんだけどヒールも履きます」じゃなくて「あたしオシャレ好きだからヒールも履きます」でいいじゃないか。

 

「おかあさん」なんていう実態のない枷なんかに自分をはめこまないで、あたしがあたしだからという理由で子育てのスタイルや生き方の選択をすることができる社会、それでみんな納得する社会、そういう社会を私は生きてみたいのだ。