夜明けの520号室

ままならないオタクによる、フリーダム&カオス雑記。

ソメイヨシノと山桜の話

春になった。
冬が寒かったぶん、ポカポカとした陽気の心地よさも格別に感じられる。
日本において、春とは桜の季節である。
私が住んでいる地域でも、例年より少し早めに桜が開花した。
真っ白な牛乳にほんの一滴いちごシロップを垂らしたような、淡い淡いピンクの花が、鈴なりに咲き誇っているのを見ると、春だなぁと月並みな感慨にふけってしまう。

 

ところで、今話題にした桜の品種はソメイヨシノである。
今の日本で一番メジャーな桜と言っていいだろう。
一方で、桜の品種はソメイヨシノ以外にもいろいろとある。
しだれ桜に八重桜、緋寒桜などのご当地桜(?)、そして野山に自生している山桜。
そういう「ソメイヨシノ以外」の桜を見るたびに、ある出来事が思い出される。

 

ずいぶん昔、私が予備校に通い始めた頃の話だ。
初めての現代文の授業の時、先生が桜の話をしてくれた。曰く、

ソメイヨシノは人工的に作られた園芸品種で、接ぎ木によって広まっていった。
今あるソメイヨシノは、全て同じ遺伝子を持つクローンである。
それに対して、山桜はさまざまな桜が交雑して生まれており、一本一本異なる遺伝子を持っている。

当時の私は、この言葉にすごく勇気づけられた。
私が通っていた予備校には、現役生と高卒生のコース以外に、高校中退者や通信制高校の生徒、再受験生といった「特殊な事情」のある生徒専用のクラスがあった。
高校を中退しており「普通」のコースでやっていく自信のなかった私は、そのクラスで受験生活をスタートさせた。
そして、先程の桜の話は、私と同じ「特殊な事情」を抱えた生徒たちに向けて語られたものだったのだ。


当時の私は「自分たちは山桜なのだ」と思った。
いわゆる「普通」の子たち――3年間高校に通った子たちは、一つの遺伝子を共有するソメイヨシノのように、同じレールを同じような顔で進んでいる。
一方の私たちは、そのレールとは違う道筋を――それも、おそらく一人ひとり異なるルートで――歩んできた。
今の世の中で一番メジャーなのはソメイヨシノだけど、「みんな同じ」じゃつまらない。
一本一本違う成り立ちを持った山桜だって、いいじゃないか。
私は、先生の話をそのように解釈した。
話を聴いたあと、テキストの扉ページに「山桜たれ。」と記したことを今も覚えている。

 

それ以来、長らく私の中でソメイヨシノは「多数派」、もっと言うなら「普通」の象徴になっていた。
「みんな同じ」ソメイヨシノと、「個性豊かな」ソメイヨシノ以外――そういう二項対立が生まれていたのだ。
そこには、10代前半から今に至るまで持て余し続けている「『普通』ではない自分」という感覚が反映されていたのだと思う。
「普通」ではないことへの劣等感と優越感。
「私は山桜なんだ」という思いには、その両方が含まれていた気がする。

 

だが先日、近所のお花見スポットを歩きながら、立ち並ぶソメイヨシノを眺めているうちに、少し違う考えが浮かんできた。
同じ場所に植えられたソメイヨシノでも、既に満開になっているものもあれば、まだ七分咲きのものもある。
芝生の真ん中で均等に枝を伸ばしたものもあれば、川沿いで水面側に大きく枝を張ったものもある。
細く頼りない若木もあれば、えぐれた跡のある老木もある。
同じ遺伝子を持つクローンであっても、一本一本が違った特徴を持っているのだ。
それらを「ソメイヨシノ」とひとくくりに捉え、没個性のシンボルのようにみなすのは、考えが浅いのではないか……そういうことを、ふと思ったのだ。

 

人間も同じなのかもしれない。
「普通」に学校を卒業して「普通」に働いているように見える「多数派」の人たちも、その内実は一人ひとり違ったものなのだろう。ソメイヨシノ的な「普通」の人も、山桜的な「普通ではない」人も、一人ひとり違ったルートの人生を歩んできて、違った個性を身につけてきた、という点では共通しているのではないか。

 

もしかしたら、多くの人はこういうことを当然のものとして認識できているのかもしれない。
彼らが私が長々と書き連ねてきたことを見れば「何を今更」と思うのかもしれない。
それでも、少なくとも私は、今年の春になってようやく「ソメイヨシノの個性」というものに気づいたのだ。
こんなふうに、少しずつ自分の思考や価値観をアップデートしていけたら、人生少しは面白いかもしれない。
そんなことを思いながら、今日も近所の桜の咲き具合を気にしている。